2014年03月07日 00:00
幕末維新のドラマは、黒船で始まります。勝海舟も坂本龍馬も黒船に乗って活躍したのです。内陸の久留米藩になんで黒船と思いますが久留米藩は、現在の大川市榎津港を中心に幕末海軍を創設しました。
元治元年(1862年)に蒸気船”雄飛丸”、慶応2年(1866年)に蒸気船の軍艦”晨風号”、洋式帆船”翔風丸”、”潦鶴丸”、”玄鳥丸”、慶応3年(1867年)に蒸気船”千歳丸”を購入しています。
”雄飛丸”、”晨風号”は、戊辰戦争、函館戦争に官軍として参加しています。
船の詳細は「諸藩船艦記」を見てください。
2014年03月06日 00:00
久留米藩と柳川藩の境界は何処なのか?
答えは矢部川です。でもそれは矢部川の中流域の話で、下流域は大川市の真ん中あたりになります。
じゃあ今の地図に線を引くとなるとかなり難しいです。
大川市は昭和29年(1954年)三潴郡内の大川町・川口村・大野島村・田口村・木室村・三又村が合併して誕生しました。
大川市の明治の大合併時の状況が下の表です。
黄色が柳川藩領、青が久留米藩領
榎津町
大川町
酒見村
小保町
向島
鐘江
2013年03月29日 00:00
久留米藩は、二代藩主有馬忠頼の時代に、西本願寺(本願寺派)と東本願寺(大谷派)に分かれ勢力を競い合っていた真宗に対し、領内の寺を東本願寺派に統一させ、従わない者は他藩に追放しています。その為今でも久留米市内で真宗と云えば東本願寺派(大谷派)がほとんどです。花畑の光明寺は、軍都久留米に来た西本願寺派門徒のために開基されたお寺です。
逆にお隣の佐賀藩では、関ヶ原で西軍に属した事を西本願寺に、とりなしてもらった恩義があり、藩内では西本願寺派のみとなっています。
2013年03月21日 00:00
町名が新設、完全に変更された分です。大字が町名に移行したものは、含みません
旧名称 旧区域
変更年月
新名称
変更年月
新名称
京隈
明治6年6月
京町
十間屋敷
明治6年6月
日吉町
城内
明治6年6月
篠山町
鉄砲小路
明治6年6月
螢川町
2013年03月20日 00:00
地租改正による、明治5年から7年にかけて第一弾の合併があり、明治22年の市制、町村制の確立による第2弾の合併があります。
高良内村は唯一、久留米市と合併するまで合併を経験していません。
福岡県史資料第3輯(誤記が多いです)等を資料として作成していますが、誤りがあれば指摘してください。
御井郡
御井郡
城内
篠山町
久留米市
白山町より縄手筋
西久留米村より小頭町字片原町
添東久留米村より国道両側添
2013年03月20日 00:00
昭和48年8月に実施された、城南町、中央町、六ッ門町の新設と地域変更の詳細です。古い町名が一気に替わっています。
旧町名
新町名
新設
京町(一、二、三、四丁目) 築島町(角ノ丁、中筋) 築島新町(上ノ丁、下ノ丁) 両替町 魚屋町(上ノ丁、中ノ丁) 築島新町(上ノ丁、下ノ丁) 両替町 魚屋町(上ノ丁、中ノ丁) 片原町(中ノ八百屋、広手) 呉服町(上ノ丁、中ノ丁、下ノ丁) 篠山町(一、二、三、四、五丁目)
城南町
片原町(中ノ八百屋、広手) 米屋町(上組、中組、下組、横丁、池町) 鍛冶屋町(上ノ
2013年03月20日 00:00
評判の良くない地名に合成地名があります。有名なのは東京の大森区+蒲田区=大田区、お隣佐賀県の三根郡+養父郡+基肄郡=三養基郡(ちなみに今の「みやき町」に元基肄郡の地域はありません)。久留米でも明治9年に庄嶋村と京隈村の合併時に、白角折神社+山王神社=白山、藤田浦村+光勝寺村=藤光村の例があります。
ところで、久留米の難解地名の筆頭『上津荒木』です。昭和26年上津荒木村は、久留米に編入され、字上津荒木地区は、上津という地名に代わりました。近隣の筑邦町荒木との混同を避けるためでしょうが、これは合成地名ならぬ、分解地名でしょうか?
2013年03月19日 00:00
久留米市と広川町の境界線は、超ジグザグです。これには『下広川村』が関係しています。昭和の大合併時に上広川村、中広川村、下広川村の合併話が進んだのですが、下広川村では、合併話がこじれてしまいました。
結局、昭和30年に下広川村の大字広川、大字一條(一部)、大字藤田(一部)→広川町、大字藤田(一部)→筑邦町、大字一條(一部)→筑後市にと分村合併しました。この時一軒一軒にどちらに入るか意向調査した結果、このジグザグです。
また『西牟田村』も筑後市に編入合併後一部地域が分立して三潴町と合併するということでこの地域の境界線は、飛び地もある複雑なものとなっています。
実は、この話は現在も進行中で、地権者の